香川県建設業協会 創立70周年記念誌
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かった。1951(昭和26)年10月に、ようやく「公共工事前払金保証事業」制度案が建設省と大蔵省で合意し、翌年スタート。それに伴い、西日本建設業保証会社香川営業所が開設した。 香川県は制度開始後すぐに採用したが、市町村の採用は遅れ、全市町に普及したのは26年後の1978(昭和53)年である。『前金のいるような会社に工事はさせない』と公言していた町長もいたが、高金利の時代には前払保証制度のメリットがあった。 資金力の乏しかった当時の建設会社にとって、建設機械の導入は大きな負担であった。1954(昭和29)年に、建設機械の購入に際し、不動産のように抵当権を付けるという「建設機械抵当法」が制定された。 県内で建設重機が登場し始めたのは、昭和30年になってからである。特に1961(昭和36)年に三菱重工が開発した油圧ショベル「ユンボ」は、万能掘削機の代名詞として県内の建設会社に瞬く間に普及した。1972(昭和47)年に建設業が登録制から許可制になるまでは、登録申請書に保有機械の記載箇所があり、ベルトコンベヤー、ミキサー、タワーなどあらゆる機械を書き入れた。多く保有しているほど県などの格付けも良かった。 建設業の機械化は、高騰する労務費や技術力不足対策、工期短縮に欠かせないものとなっていった。 1972(昭和47)年7月、日本列島改造論を掲げた田中内閣が発足すると、地価と建設資材価格が高騰した。政府は公共工事の上期契約率を55.8%に引き下げ鎮静を図ったが、1973(昭和48)年の第一次オイルショックで、国内の石油類市場価格は急騰した。建設資材では特にセメントが急騰し、11月に起工式が決定していた本四架橋3ルートの同時着工は凍結された。翌年3月には小豆島では生コン供給がストップする深刻な事態となった。 原油価格の暴騰は、生コンなど主要資材の暴騰、品不足を引き起こし、建設業界は存亡の危機に直面した。協会は関連8団体に呼び掛け、1973年12月「香川県建設業者総決起大会」を開いた。関係者2,000人が集まり、大会は成功。主要資材単価のスライド条項にこぎつけた。 1975(昭和50)年から国は建設国債を発行して公共工事を拡大した。1978(昭和53)年に本四架橋着工の凍結は解除されたが、翌年の第二次オイルショックで公共工事は再び抑制された。翌々年の住宅着工は1968(昭和43)年以来の低水準を記録し、この頃の建設会社の倒産は史上最悪となった。機械化を促進した「建設機械抵当法」建設業冬の時代へ香川県建設業協会 創立70周年記念誌130

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